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北斉婁叡墓壁画考

| 一 婁叡墓壁画の概況 | 二 壁画の主題と婁叡伝 | 三 人物画風の特色 | 四 馬の描写 | 五 北斉画壇の状況 |
小結 | | 図版出所目録 |

 北斉の婁叡墓は、1979年4月から81年1月にかけて、山西省の太原市南郊、王郭村の西南1キロの地点で発掘された。墓は、封土、墓道、甬道、墓室の四部分で構成されるこの時代通有の形式であり、封土の残存高6メートル、底部東西17.5メートル、南北21.5メートル、墓道長21.3メートルと、北朝では比較的規模の大きな磚構単室墓である。副葬品として、陶俑、陶磁器、金銀の宝飾品、墓誌などが発見されたが、最もこの墓を特徴づけるものは、墓道、甬道、墓室四壁の全面に描かれた壁画である。
 壁画は、墓道全域をおおう乗馬人物の行列や駱駝の隊列、墓室内の墓主の生活や星辰などの主題に大別されるが、墓道の乗馬人物群がことに出色の仕上がりである。これ以前には見られないようなユニークな人物の造形や、きわめて写実的かつ生き生きとした馬の描写などは、現在知られている墳墓壁画の中では最もすぐれたもののひとつであることは間違いなく、中国絵画史全体をとおして見ても、数ある名品に全くひけをとらないもののように思われる。
 魏晋南北朝時代の絵画は、現存作品がほとんどなく、画史の上では一般に南朝の画家の盛名が喧伝され、北朝の絵画はその陰にかくれた感があった(1)が、めぼしい作品もない以上、その実態はほとんど推測の域を出なかった。しかしながら、近年の多くの発掘の成果(2)により、この時代の絵画の実情が、ようやくおぼろげにではあるが、知る余地が出てきたのである。その中でもこの婁叡墓壁画は、現存する魏晋南北朝時代の絵画の中で最も品質の高いもののひとつであると思われる。またその特異な画風は、同時代の作例が少ないことも相俟って一際精彩をはなっており、注目に値する。
 このような壁画の特色は中国本土では早くから着目され、1983年の『文物』誌上での発掘報告とともに、宿白、史樹青の両氏をはじめとする数人の研究者の論考(4)が発表された。そして翌84年の『美術研究』第1期は婁叡墓の特集号とでも言うべき内容で、金維諾、陶正剛両氏の論考をはじめ、各種の論文が発表された(5)。さらに1985年の『中国芸術』創刊号では、比較的大判の図版とともに、金維諾、史樹青氏らの論文(6)が発表され、はじめて婁叡墓壁画が一般に知られるようになった。またその後も散発的に論考が発表され、謝稚柳氏も『文物』1985年第7期において、莫高窟の隋唐窟の画風との関連を問題にされている(7)。そして1990年に北京の故宮博物院で開催された中国文物精華展では、墓道壁画の一部が一般に公開された(8)。それらのなかでも、発掘報告中の宿白氏の論考や金維諾氏の『美術研究』論文は、魏晋南北朝から隋唐にかけての絵画史において、婁叡墓壁画の占める位置づけや意義を考察して極めて明解であり示唆に富む。その画系に対する考え方は筆者の所見とも一致し、その論旨には全面的に賛意を表するものであるが、他作品との比較検証において今ひとつ不十分な憾みがあり、現存する他の南北朝時代の作品に対する認識・判断もあまりなされているとはいえない。
 そこで本稿においては、婁叡墓壁画という全く新しい個性的な画風を、魏晋南北朝から隋唐にかけての絵画史において、どのように解釈し位置づければよいかを総合的に考え、この作品の意義と問題点について考察を加えたい。

一 婁叡墓壁画の概況

 婁叡墓についての概況は『文物』の発掘報告(9)に詳しいので、ここでは壁画についての状況を、本稿に関連する重要な点に限って概観しておきたい。
 婁叡墓は山西省太原市南の郊外、晋祠公社王郭村の西南1キロの地点にあり、懸甕山と汾河の間に位置する。墓と現太原市との間には北斉の晋陽宮の遺址があり、この墓が長い間、北斉の顕臣斛律金の墓であると伝えられていたことは注意を要する。すなわち北斉の副都である晋陽付近のこの地域は、首都である鄴都と同様に、北斉の皇室や顕戚の墳墓が数多く存在するからである。
 発掘作業は1979年4月から81年の1月まで1年半以上かかり、墓室壁画の洗浄、模写、写真撮影の後、壁画のはぎとり作業が行われた。発掘に参加した組織は、山西省考古研究所、太原市文物管理委員会等であり、壁画は現在山西省博物館等に所蔵もしくは分蔵されているものと思われる。
 婁叡墓は、先述のように封土、墓道、甬道、墓室の四部分からなっている単室磚構墓である(図1)。墓道から甬道の途中までは露天部分で、傾斜角22度の坂道になっており、地上には南方、やや南西よりに開口している(図2)(図3)。甬道後半部は墓室につながる水平なトンネル状構造で、トンネル部の中間よりやや墓道よりに墓門が設けられており、墓門の前後のトンネル開口部は磚を積上げた壁でそれぞれ密封されていた。墓室は磚を構築した単室構造で、外側にやや円く膨らんだ方形プランにドーム状の天井を持つ。
 墓道、甬道、墓室のほぼ全面に描かれていた壁画は、自然な剥落や盗掘等の人為的破壊によってかなりの壁面が損壊したが、墓道の大半と甬道露天部の下層部分およびトンネル部分の大半、墓室の四壁と天井の一部が残存しており、墳墓壁画の類例のなかでは保存がよい状態であった。
 墓道の東西両面は上中下三段に段差をつけて区画され(図1)(図2)(図3)、上中層は騎馬人物図を描き、西壁が出行図(図4)(図5)(図6)(図7)(図8)(図9)(図10)(図11)(図12)、東壁が回帰図(図16)(図17)(図18)となっている(12)。また西壁上層の後半部は、駱駝と胡人の隊列が描かれ(図13)、下層は軍楽隊の図(図14)(図15)である。甬道の露天部下層には侍衛、墓門の前部両壁には門衛(図19)(図20)が表されており、墓門内部の甬道壁にも官吏の姿が描かれている(図21)
 墓門の左右扉には青龍、白虎が描かれており、墓門上の額部分には頭上に摩尼宝珠を戴いた龍頭、その左右には蓮華をくわえた一対の鳥が、すべて浮彫りで表現され、その上には赤色の顔料と金箔が認められる(図22)(図23)。墓門上の楣には蓮華を半パルメットでつないだ文様が、門扉左右の框には摩尼宝珠と半パルメットの忍冬唐草文が、それぞれ浮彫りに顔料、金箔で仕上げられている(図23)(図24)
 墓室西壁には、幌つきの牛車と侍女たちの隊列を描く(図6)。侍女の後方には華蓋が張られ、その下に婁叡夫妻とおぼしき老齢の男女がいる。墓室四壁の上欄部分には、十二支とおぼしき動物たちと名称不明の神獣群(図30)や、玄武と思われる蛇腹の一部、雷神などが認められる(図26)。墓室天井には日月星辰が描かれる(図29)。東方下部には、一部欠損しているが三足烏がはいった太陽があり、星には流星なとも描かれ、発掘報告によれば銀河も認められるという。
 これらの壁画のうち、質量ともに充実しているのが人物と馬の表現である。墓道壁面に数十人単位で登場する人物のほとんどが、特有の頭巾(もしくは冠)をかぶり、筒袖に円襟(一部袷)の裾の長い袍を著てベルトをしめ、その下にはズボンを履き、革の長靴様のものを履いている(13)(図17)。壁画を一見してまず眼につくのが、これらの人物の個性的な顔貌表現である(図10)。瓜実型のふっくらした顔の形態に高く秀でた額、ややへの字型の濃い眉と切れ長のきりっとした眼、鼻梁がはっきりとした丸めの鼻、厚い唇に長(さ)の短い女性のようなかわいらしい口、それと対照的にしっかり張りだした顎、やや太め短めのしっかりした首、しゃんと伸ばした背筋等、鮮卑系とされるこれらの人々の民族的な特色や気風まで感じさせるような形態の表現である。
 そして筆法に関しては、全体的に肥痩が少なめの筆線を用いるが鉄線描ではなく、適度な強弱のリズムを持った張りと伸びのある線質である。筆線の精粗にも細やかな配慮がみられ、西壁墓門内の官吏(図21)などは、冠の極太の線と髭の面相筆による細密な線の使い分けのバランスが見事であり、眉毛や髪の生え際の毛描きなども、この時代の技巧のひとつの頂点を示すものではないかと思われるのである。
 さらにこれら人物群の動勢表現にも、なかなか繊細な気配りが見てとれる。墓道西壁中段の騎馬人物について見ると、全体が墓道開口部に向かって騎馬行進しているのだが、現存部分は先頭からおおよそ5つのグループに分かれている図(5)。そのうち第1グループと第3グループ図(10)には人馬ともに密集していて、各人物にいろいろな表現の差異化が図られている。まず、基本的に顔貌の造形は同じなのだが、顔の向きを真正面、左右斜め前、真横と3~4種類の変化をつけている。それに口髭、顎鬚の有無や、服装の色、袷の違い(円首と袷)などで違いをはっきりさせ、眉、鼻などに微妙な個人差を出している。そして第3グループ後ろの人物が乗る馬が、何かに驚き前脚を軽く跳ねあげ、騎者はバランスをとって前かがみになっているところ(図12)を、第2グループ後列のふたりが振り返って注視しており、第2グループ後者の人物も何事かと振り向いている。
 また、馬の表現にも驚嘆させられるものがある。人物同様に、馬の一挙一動が実にいきいきと描かれている。とくに馬の首の向きがそれぞれ変化に富んでいる。第2グループ、第4グループの二頭目の馬は、いなないてのけぞるようにしており、第3グループ先頭の馬は後ろを気遣うように振り返っている。そのほかの馬はおおむね進行方向を向いていて横顔であるが、1頭だけ第2グループの一番手前の馬が、まるでこの絵を見る者を気にするかのようにわれわれの方をちらっと一瞥している(図11)。この馬の描写は実に優れたものである。手綱の表現こそいささか平板だが、馬の顔の造形は極めて的確で描線の使い分けもバランスよく、鼻梁のハイライトを中心とする微妙な陰影表現により、顔全体に自然な立体感が生まれている。またこれ以外の馬の描写(図7)(図9)も睫毛や髭の毛描きにおよぶまで神経が行き届いており、まだ洗練されない未整理の線描も多い代わりに、極めて躍動感あふれる表現になっているのである。
 このように、とかく単調になりがちな行進の場面が、一本調子になることなく実に自然に表現されているのは、この時代の絵画にはほとんど類例がなく、驚くべきことである。それは、魏晋南北朝時代の絵画を考える際に、これまでわれわれが参考にしてきた顧愷之等の伝称作品とは、あまりにも異なっており、精彩があるからである。このような作品を絵画史の中でどう解釈すればよいのかを考える前に、この壁画が描かれた背景を、被葬者 婁叡とのかかわりの中で考えてみたい。

二 壁画の主題と婁叡伝

 婁叡墓からは、数々の副葬品とともに墓誌銘が発見された(14)。「齊故假黃鉞右丞相東安婁王墓誌之銘」と記された墓誌蓋を伴い、行30字、30行、全文866字になるもので、これによって北斉の外戚、婁叡の墓であることが判明したのである。
 婁叡の基本史料は北斉書である。巻15の婁昭伝に附して、婁昭の兄の子として伝を立てられており、もう1箇所別に、巻48の外戚伝に独立した伝として2箇所登場する(15)。この2伝はだいたい似たような内容であるので、墓誌銘や婁昭伝、神武婁后伝も参考にして簡単に婁叡の伝記をたどり、北斉王朝内での立場をみてみよう。
 婁叡の曽祖父婁提は、北魏の太武帝に仕えた「雄傑」であり真定候に封ぜられたが、祖父婁内干は仕官することなく卒した。その内干の子が、婁叡の父婁抜、その弟婁昭、そして妹で後に神武帝(北斉を開いた文宣帝高洋の父高歓の諡号)の妃、武明皇后となる婁昭君の3人である。父の婁抜が早くに亡くなったため、婁叡は叔父婁昭の庇護のもとで育った。婁昭は「大度深謀」のある武将であったので、高歓に早くから重用されていた。また叔母の婁昭君も高歓を見染めて妻となり、その子供たちが次々と北斉の皇帝となったので、婁叡は皇太后が叔母、皇帝とは従兄弟同士という関係となった。すでに東魏時代から高官の道を歩んできた婁叡は、皇建初年(560)に東安王に封ぜられ、武平元年(570)に没したときには、大司馬、右丞相の位にまで登りつめていた。
 婁叡の昇官は、その身分的なものが大きいと思われるが、武将としてなかなか優秀であったらしく、北周との戦役や反乱の平定にたびたび功績をあげており、その手柄による累進も大きかった。彼は官史というよりも武人であり、官位はあっても行政能力は低かったようである。というのも北斉書の彼の伝には、「叡わかくして弓馬を好み、武幹あり」とあるが、「任にあっては貪りほしいままにし、深く文襄(後の文宣帝高洋の兄、文襄帝高澄のこと)の責むる所となる」、「叡他に器幹なく、外戚貴幸をもって、情を財色にほしいままにす」といった記述や、「瀛州刺史となっては、聚斂厭くことなし」という文からわかるように、身分や役職の特権をかさにきて財色に奔走した、典型的な酷吏貪官の態を呈していた。さらに「河清3年(564)、濫りに人を殺し、尚書左丞宋仲羨の弾奏するところとなるも、赦を経てすなわち免る」とあるように、東安王に封ぜられた後にもむやみに殺人までおかしている。彼の生涯は蔭位や武功による昇進の歴程であったが、不行跡やそれによる降官も克明に記録されている。これは、婁昭の人格者としての側面を強調する婁昭伝前半の文章とは対照的であり、正史本文の記述としてはかなり辛辣である。
 ひるがえって、墳墓壁画の大半を占める墓道の壁画の主題が出行(と回帰)図であるのは、特に西壁中段の武人騎馬集団のできばえをみると、武術にすぐれ軍功の高かった(あるいはそれ以外に能がなかった)婁叡にまことにふさわしいものに思われる。騎馬人物の出行を墓道に描く墳墓壁画の例はほかにいくつか存在する(16)が、南北朝、隋唐のなかではむしろ儀仗、儀衛の図や侍者や官吏の列の図の方が多いくらいである(17)。つまり、出行図が墓道壁画の主題として必須であるわけではなく、当然そこに墓主やその遺族の趣向の反映する余地がある。ことに騎馬人物の出来に精彩があるのは、そのような事情によるところも大きいのではないだろうか。
 北斉時代の皇帝といえば、文化史上では北魏とならんで大規模な仏教石窟の造営をおこなったことで名高い。すなわち響堂山石窟や天龍山石窟の造営である。北斉の帝室が深く仏教とかかわっていたことは有名であるが、外戚である婁叡もやはり仏教と、それも石窟の造影に密に関与していたのである。正史以外に婁叡の事蹟を探ると、645年に成立した続高僧伝にその片鱗が窺われる。北斉の名僧である僧稠の伝にもその名が見える(18)が、注目すべきはおもに隋代に活躍した霊裕とのかかわりである。巻9釈霊裕伝に「(霊裕)のち鄴下に還り、諸法師と連座し談説す。斉東安王婁叡、諸僧に致敬し、次に裕の前に至る。覚えず怖れ、汗を流す。退きて問うにその異度を知る。即ち奉じて戒師となす。宝山一寺は裕の経始なり。叡、施主となりて金貝を傾撤す。其の潜徳の人を感じせしむるは又此の類なり。」という一文がある(19)。このことから、婁叡が霊裕に帰依し、彼が始めた宝山の一寺は、婁叡が施主となって莫大な財貨を投入したものであることがわかる。
 この寺は、現在の河南省安陽にある宝山霊泉寺である。安陽県金石録によれば、宝山には「大方廣佛華嚴經碑」があり、その下部には「寺壇越主、司徒公使持節都督、瀛冀光岐豐五州諸軍事、瀛冀光岐豐五州刺史、食常山郡幹東安王婁叡、東安王郡君楊」の一文がある(20)。これによれば、婁叡とその夫人楊氏が壇越主となってこの華厳経碑が立てられたことがわかる。宝山霊泉寺の石窟には、ほかに霊裕関係の窟や法塔がいくつか確認されており(21)、霊泉寺と霊裕と婁叡の関係は、これらのことからほぼ確認できると思われる。
 このような婁叡と仏教のかかわりによって、甬道あるいは墓室内に描かれたいくつかの図柄の解釈が可能となってくる。中国の墳墓には、通常仏教的な思想を反映するものはあまり見られない。ところが婁叡墓には、墓門の装飾に使われている摩尼宝珠、金翅鳥、甬道壁や墓室内部に散見される蓮華など、仏教の石窟寺院に見られるような文様、図像がいくつか報告されている。特に摩尼宝珠や、それらを取り巻く半パルメットは、先述の響堂山石窟に現れているものと極めて似ており(図31)(図32)(図33)、これらの密接な関係を示唆している(22)。つまり、婁叡がいつ頃からかははっきりしないが仏教と深いかかわりを持ち、それゆえ通例とは異なってその墓室装飾に仏教的な図像が用いられた、と考えられるのである。またその図像が、響堂山に見られるような西方伝来の要素(23)を色濃く残していることも、この時代の東西交渉を考える上で興味深い(24)。 以上のような考察から、婁叡墓壁画の主題は、その被葬者の生前の性向に強く影響されている可能性が高いことがわかる。

三 人物画風の特色

 婁叡墓関連の資料からわかることはおおむね前述のとおりであるが、この時代の類例との画風上の関係はどのようなものであろうか。まずもっとも眼につき、かつ比較作品が多い人物の画風を考えてみたい。
 まず北斉時代の墳墓壁画と確定、あるいは比定されるものを列挙すると、山東省臨昫県にある天保2年(551)の崔芬墓(25)、山西省寿陽県にある河清元年(562)の厙狄迴洛墓(26)、河北省磁県にある天統3年(567)の堯峻墓(27)、山東省済南市馬家荘にある武平2年(571)の道貴墓(28)、河北省磁県にある武平7年(576)の高潤墓(29)、山西省太原市にある年代被葬者ともに不明の金勝村壁画墓(30)などがあり(31)、石室墓である崔芬墓を除けばいずれも婁叡墓と同様な単室磚構墓である。
 崔芬墓は詳細が不明であるが、西室の人物出行図(図35)を見ると、人物の顔貌表現は眼窩上辺や頬骨、顎骨などが飛び出した形に切れ長の眼、眉、といった特色を持ち、婁叡墓の画風とはかなり異なる。後続の女官たちの描写は優美であり、北壁の屏風形式の画面構成に樹下人物(図36)という形態は、南京西善橋墓画像磚の竹林七賢の構成ともよく似ており、南朝系の絵画である可能性が高い。墓室が石室であることも他の北斉とは異なっており、婁叡墓とは別系の技術、思想で作られたものであろう。
 厙狄廻洛墓は、図案や装飾文様のほかは、墓門周辺の朱雀、白虎、甬道に人物数名が描かれているのが認められているだけである。墓道は報告の時点では未整理で、壁画の有無も確認されていない。発掘報告の数点の貧弱な図版では、婁叡墓と同じ装束の人物であること、比較的ほっそりしたプロポーションにどっしりした腰つきであることぐらいしかわからない。しかし特徴ある頭巾(冠)や髭、への字型の眉や瓜実型に近いと思われる顔の形は、筆法等はともかくとしても、婁叡墓との親近性を示していると言えよう。
 堯峻墓は特に盗掘等による破壊がひどく、甬道南口上方に設けられた門墻に、大鳥と羽人とおぼしき人物の壁画が報告されているに過ぎない。
 道貴墓は婁叡墓と最も埋葬年代が近く、壁画も多く残されているので注目に値する。しかし墓道に壁画はなく、甬道の門墻の怪物と墓室四壁の墓主人の生活の図が、ほとんど白描に近い筆致で描かれていて、墓室内部以外に主題の共通性はない。墓室天井には星辰日月が通例のごとく描かれるが、鳥のいる太陽が西に、兔と蟾蜍のいる月が東に出ている。墓室北壁に9扇の屏風を背にした墓主人が坐し、西壁には幌つきの車と侍女たちがいて、主題としては婁叡墓と重なる部分も多い。一見すると白描風であり、何よりも画家の技量にかなりの落差があって、描写が素朴なので、婁叡墓とはずいぶん異なる印象を受ける(図37)。だが人物の造形や筆法は異なっていても、その装束等には共通性があり、顔貌表現においても、ふっくらとした豊満な顔容、鼻筋が通った円い鼻、太めの首など、婁叡墓との類似点は意外に多い。
 高潤墓は墓道、甬道、墓室ともに壁画の所在が確認されているが、崩落が激しく、墓室の一部しかその主題がわかっていない。
 金勝村の壁画墓は、墓道は破壊されており甬道の壁画も確認されていない。しかし墓室にはかなりの壁画が残されていて、やや注目に値する。墓室北壁には、道貴墓同様、5扇の屏風を背にした墓主とおぼしき人物が坐しており、東壁には幌つきの牛車と寺社が数人描かれている。四壁上層部には四神や瑞雲、宝相華などが描かれているようであるが、東壁の青龍の後ろにあるのは蓮華座にのる摩尼宝珠のようである。いずれも婁叡墓の緻密で洗練された描写に比べれば素朴であるが、鮮卑系の装束や瓜実型の顔、丸い鼻、スラリとしたプロポーションでありながら太めでどっしりとした腰つきなど、共通する造形要素が現れている。
 このように見てみると、作品数が少なく不十分ではあるが、北斉の墳墓壁画の共通項と婁叡墓壁画の特異性がある程度推定できる。主題においては、墓室の主人、車、侍者、天井の星辰日月という、漢代以来のモチーフに加えて、宝相華あるいは摩尼宝珠という仏教的な香りのする図像を装飾文様にしている。人物表現においては、鮮卑系の装束に、瓜実型の顔、鼻梁のはっきりした円い鼻、スラリとしたプロポーションでありながら太めでどっしりとした腰つきなどの様式的特色が挙げられる。婁叡墓では、こうした鮮卑式ともいえる表現に加えて、きりっとした眼つきに濃いへの字眉毛、背筋をのばした堂々とした姿などが特徴的である。さらに異なるのは馬の表現であるが、これについては別章で考察したい。
 北斉のこうした特色を検証するため、もう少し時代と地域を広げて考えてみると、いくつかの重要な壁画墓が視野に入ってくる。甘粛省嘉峪關市新城の曹魏~西晋期と推定される画像磚墓(32)、雲南省昭通の東晋太元十年代(386~394)の年紀を有する霍承嗣墓(33)、甘粛省酒泉の後涼~北涼(386~439)と推定される丁家閘5号墓(34)、河北省磁県にある東魏武帝8年(550)の茹茹公主墓(35)、寧夏固原県にある北周天和4年(569)の李賢墓(36)、同じく寧夏固原県にある随大業6年(610)の史射勿墓(37)などである。
 嘉峪關市新城の画像磚墓(図41)は魏晋期、霍承嗣墓や丁家閘5号墓は東晋時代の壁画墓であるが、いずれもやや辺境に属するもののせいか、その主題はおおむね漢代のものを継承している。その画風は、ねばりのあるのびやかな線質で、髪や髭の跳ねが強く、鋭い筆致が端々に現れており、北斉絵画との類似性はあまり感じられない。
 それに対して、茹茹公主墓壁画は場所も時代も近く、東魏が事実上、高歓が支配した国家であるから、その関係が注目される。ところが、文物に発表された写真や模写を見る限りでは、意外に共通項が少ない。顔貌描写は、正面向きが多いせいか婁叡墓とはかなり異なっている。茹茹公主墓には墓室以外に墓道にも壁画が残されているのだが、その主題も儀仗である。
 北斉と対決した北周の、婁叡墓とほぼ同時期の墳墓が李賢墓である。ここからは、ササン朝ペルシャの銀製水瓶や瑠璃椀などが発見され、東西交渉の上で興味深い墳墓であるが、墓道に見られる正面向きの武人像等の人物は、婁叡墓とは全く異なるものである(図38)(図39)(図40)。豊満ではあるが四角く張りだした顔、首が太短く寸詰まりなプロポーション、眼よりかなり高い位置につく三日月型の眉、額上方や頬の上半分に施された照り隈など、生硬な筆致の中に西方の画風を色濃く体現している。具体的には、中原地方の絵よりもキジルやクムトラの石窟壁画の造形に近いものがある。
 この李賢墓と同一地域でありながら、40年ほど時代が下がる史射勿墓は、李賢墓とは全く異なる画風である。李賢墓に見られたかた苦しい正面観は影をひそめ、人物は斜め横を向き拱手して笏を持ち、やや動きのある姿勢である(図42)(図43)。服装は、円首、筒袖、腰にベルト、長靴(図42)というように、基本的には鮮卑式と共通しているが、冠は唐代壁画などによく見られる幞頭の類になっている。顔の造作は婁叡墓とは違って、眼がやや落ち窪んで眉尻や頬、下顎が飛び出し気味になっている。鼻は、プロフィールに近いこともあって鼻筋が強調され、小鼻も大きめである。全体に婁叡墓ほどのデッサン力はなく、線質もやや雑でかすれなども目立つ。髭や鬢の毛描きも丁寧とは言えない。ただ李賢墓とは異なって、唐代の人物表現に一段と近づいているとは言えるであろう。
 これらの諸作品は時代も地域も多様であるように、その内容も複雑で安易な一般化を拒む状況にある。そこでもう少し、墳墓壁画以外の作品に眼を向けて考えてみたい。
 まず現存する石窟壁画の中でもっとも古い紀年銘(西秦建弘元年[420])を有するとされる、炳霊寺169窟の壁画を見てみると、簡略な粘りと伸びのある筆致の菩薩や如来像が多い(図44)。この素朴な筆法には漢代の造形に通ずるものがあるが、後の敦煌莫高窟17窟将来の唐代絵画に多く見られる顔貌表現の特徴をすでに備えているのも興味深い。また、同じ北壁に見られる供養者像(図45)の顔貌表現は、漢代というよりも後出の顧愷之の女性像の定形に近い、細面、切れ長の眉や眼、といった特色を持ち、示唆するところが多いが、嘉峪關の画像磚と同じようにこの時代の基準作例として認めえても婁叡墓とのかかわりはまだ希薄である。
 次に石窟壁画の中で北斉と時代の近いものを捜してみると、北魏後期の麦積山石窟78窟の壁画断片がある(38)(図46)(図47)。そのうち伎楽天は、高く曲線を描いて立ち上がる眉や痩せて突き出た頬と顎など、いわゆる「秀骨清像」と呼ばれる北魏仏の容貌の特色がわずかに感じられる。その顔貌の造形は、史射勿墓に通ずるところがある。しかし、もう一点の火頭明王の供養者の顔貌表現は、卵型のややふっくらとした形に整った破綻のない眉や眼、口など、極めて造形的な完成度の高いものであり、簡潔な筆致で過不足なく、節度のとれた穏やかな表現を見せている。いわゆる「秀骨清像」だけではない、北魏絵画の奥の深さが感じられるようである。
 そして敦煌莫高窟の北周窟である428窟の方柱基壇北面の供養者図を見てみると、婁叡墓壁画に近似した図像がある。特に男性の供養者の列(図48)(図49)を見ると、鮮卑式の装束、頭巾を身につけて拱手する若い男性は、婁叡墓の騎馬人物群と多くの造形上の共通点を持つ。足を広めに開いて腰を前方に出し気味にして背筋を伸ばす立ちかたは、この時期の小金銅仏のようであるが、比較的丸顔に切れ長の眼、広い額、濃いめのきりっとした眉、小さめの口と広く張りだした下顎のラインなどの顔貌表現は大変よく似ている(図49)。なによりも、細めのプロポーションと精悍な顔つきに、独特の親近性があるのであり、一連の類品の中ではもっとも婁叡墓の人物表現に近いものと言えよう。
 このように見てくると、北周には李賢墓のような、西方式と北魏式の混淆したようなスタイルだけでなく、婁叡墓に代表される北斉の鮮卑式画風も存在していたことがわかる。そしてこの頃の画壇には、「秀骨清像」に代表される北魏系、婁叡墓に代表される鮮卑系(または北魏の鮮卑と区別して北斉系)、そして濃い隈取りの西方系、という各種の画風が混在していたのではないかと推測されるのである。そしてもうひとつ、このような画風の要素を考える上で忘れてはならないのが、南朝の画風である。 これまでの伝世品の考察だけでは、まったく推定の域を出なかった南朝の絵画の研究であるが、近年の出土品をもとに、その画風の解明がようやく可能となってきた(39)。特に顧愷之画風(図55)(図56)(図57)との関連で注目されるのが、山西省大同市の北魏司馬金龍墓から出土した屏風漆画の列女古賢図である(図50A)(図50B)(図51A)(図51B)(図52)。墓主の司馬金龍は北魏の顕官で、太和8年(484)に卒しているから、この漆画がこれより下らない時期の作であることはほぼ間違いないが、この絵の人物表現がどうも北魏風ではない。むしろ寧夏固原近郊で出土した北魏の漆棺彩画(40)(図53)(図54)のほうが、先述の鮮卑様式に近く、北魏の固有様式に近いのではないかと思われるのである。この司馬金龍墓漆画で眼をひくのは、画中の士人の服装である。きわめて厚手のゆったりした褒衣で(図51A)(図51B)(図52)、こうした著衣の表現は、これまでには伝顧愷之筆とされている列女仁智図巻(北京、故宮博物院)ぐらいにしか見られなかったものである。列女仁智図巻(図56)には強い隈取りが施され、従来は西方画法の影響と言われてきたが、これも司馬金龍墓漆画と合わせて考えるべきであろう。しかし顔貌表現はむしろ女史箴図巻(図55)に近く、細面で切れ長の眼、眉を持つ。それゆえ、こうした面貌表現をとる先述の崔芬墓も、人物描写の特色においても南朝画風であると言えよう。 このような南朝画風を考慮に入れると、先に述べた隋の史射勿墓の画風の変貌が解釈できる。つまり、北魏式よりさらに西方風であった李賢墓壁画から、わずか40年で同じ地域の画風が激変したのは、南北朝統一による南朝画風の影響ではないか、ということである。もちろん北周にも莫高窟428窟の供養者像のような婁叡墓画風は存在していたし、崔芬墓のような南朝画風もあったわけであるが、隋の史射勿墓においてはそれらの洗練された画風が地方化、土著の画風と融合したと考えると理解しやすいであろう。

四 馬の描写

 婁叡墓において、人物の表現に劣らず個性的かつ精彩があるのが馬の表現である。この馬の表現技術の洗練と生動感だけとってみても、婁叡墓壁画の有する価値は突出しているように思われる。以下、歴代の代表的作例をとってそのことを検証してみる。
 出土した馬の絵で、現在公表されているものは意外に少ない。古代の絵画で最も著名なものは、おそらく和林格爾漢墓の壁画であろう。この墓は内蒙古自治区和林格爾県にある新店子1号墓で、後漢時代、2世紀後半頃のものとされている(41)。墓内には大量の壁画が残され、それぞれに附された題記によって墓主の生前の官歴を描いたものであることがわかっている(42)。そのうち、特に出行図に大量に描かれる馬の描写は、古代の画風を知る上で大変興味深いものである。その特色は、粘りのあるのびやかな曲線によって、円みを帯びているが引き締まった馬の躍動感あふれる画風にある(図58)。しかし漢代絵画通有の特徴として、無駄のない簡潔な筆致で巧みに捉えられた馬の動感表現はみごとだが、細部の描写は省略されている。馬の体躯のプロポーションはみごとだが、蹄や関節は細く華奢で、後世の絵と比べると存在感、重みに乏しい。 魏晋南北朝時代の馬の絵は、婁叡墓以外には例が少ないが、敦煌にいくつか散見される。ここでは莫高窟の北周窟である290窟方柱基壇西面の胡人馴馬図を見てみよう(図59)。イラン、ペルシャ系とおぼしき人物が鞭を手に馬を調教する図であるが、威嚇するかの如き人物の動作に対して、それに刃向うように腰を落として前脚をあげる馬の姿がいきいきと描かれている。筆致はやや粗いが、馬の体躯のプロポーションはかなり正確であり、蹄、脚の関節部もしっかりとしたおおきさで描かれていて、存在感もある。しかし、やはり細部の描写や仕上げの完成度は、婁叡墓(図7)(図9)(図11)とは比較にならない。
 次に、やや下って初唐頃の作例を見てみると、馬の細部の表現はひとつの完成の域に達していたことがわかる。寧夏固原市南郊の聖暦2年(699)の粱元珍墓道壁画(43)の馬の絵(図60)は、やや肥痩のある線で面貌の凹凸、胸部や脚部の筋や皺、尻尾やたてがみの毛などを比較的丁寧に描き、微妙な隈取りを施す。こうした細部の描写において、ようやく婁叡墓に比肩しうる観察力や部分描写への配慮が現れているが、姿形を正確に写すことがこの馬の制作意図の基本であるせいか、躍動感、動感表現においては婁叡墓との懸隔は甚だしい。
 これに対し疾走する群馬の表現で有名なのが、陜西省乾県にある乾陵陪葬墓のひとつであり、神龍2年(706)の造営と推定される章懐太子李賢墓(44)の墓道壁画である。この壁画(図61)(図62)はやや肥痩のある簡潔な描線で的確に馬の姿態を表現し、無駄がない。胴体や首が太めで脚が短めという特色を持っているが、顔貌の微妙な起伏や脚の筋などを、過不足のない線で描き、顔料で微妙な立体感も表しており、表現としては、極めて洗練されたかたちであると思われる。しかしながら、疾走する姿を描きながらもおのおのの馬の姿は類型的で、動きはあるもののやや生硬さを免れていない、というのは酷に過ぎる評価であろうか。婁叡墓の群馬が、それぞれ微妙に動作を変え、それが極めて自然に一群の馬の動きを描破していたのとは、やはり差があると思われる。これは粱元珍墓壁画でみたような馬の表現の定形化がさらに進んだものと言えるかもしれない。 また細部表現の精密さという点では、壁画はその制作環境などの面で絹本とは比較にならないので、時代は下がるが絹本の伝世品の例を見てみよう。(図63)(図64)はそれぞれ五代の胡壊の筆とされる回猟図(台北、故宮博物院)および南宋の陳居中の文姫帰漢図(同)の部分であるが、ここに宋代の写実的な馬の顔貌表現を見てとることができる。回猟図の方が、画面が小さいこともあってより細密であるが、馬の髭、たてがみの毛描きや轡の装飾などの緻密さは、中国絵画の技術水準のひとつの目安になるであろう。そして轡周辺の表現こそこれらに見劣りするものの、馬の動きや溌剌とした生命感は、婁叡墓の方がはるかに優れていると言えるのではないだろうか(図11)
 このように少ない資料ながら、漢から唐にかけての馬の表現を比較検討してみると、婁叡墓壁画の馬の絵が有する古典的性格が自ずから明らかになってくるのである。すなわち漢から魏晋期にかけての一種写意的ともいえるエッセンスだけの簡潔な描写から、生動感を伴った写実的な表現へみごとに転換し、隋唐に盛んになる馬の表現の原形となったのが婁叡墓壁画ではないか、と推定できることである。

五 北斉画壇の状況

 さて前章までの考察により、魏晋南北朝時代における婁叡墓壁画と現存する関連作品との関係について、おおよその見当がつけられるのではないかと思われる。すなわち、北斉時代までに、地方においては漢代の古様な画風がなお残り、中央画壇においては東晋の顧愷之に代表される南朝画風、西方伝来の西域画風、それらの融合から生まれた可能性が大きい北魏の「秀骨清像」の画風、の少なくとも3者の画風が存在していたが、北斉においては婁叡墓壁画に代表されるような鮮卑系の画風を発展させた様式が生まれ、それが南朝風、北魏風とともに隋唐の絵画様式に多大な影響をもたらした可能性がある、ということである。具体的には、嘉峪關新城、酒泉丁家閘などの壁画は漢代の遺風を受け継ぎ、崔芬墓や司馬金龍墓漆画などは南朝系の画法によっており、北周李賢墓や炳霊寺169窟の一部は西方系の画法、寧夏固原出土の漆画や麦積山78窟の壁画断片は北魏系、そして金勝村壁画墓、莫高窟北周428窟などが鮮卑風であり、なかでも婁叡墓が最も質的に優れたものである、というふうに程度の差はあっても推定できるのではないだろうか。
ここで改めて婁叡墓の騎馬人物出行の図を思いうかべると、類品に比べてその出来のよさにいまさらながら感心させられる。そこで歴代名画記の記述を検討しなおしてみると、作品不在ゆえにあまり意識されなかったが、北斉時代は絵画制作が盛んで、名画家もかなり輩出していたことがわかる。歴代名画記巻1の「叙歴代能画家人名」をみると、晋23人、宋28人、南斉28人、粱20人、陳1人となっていて、南朝の錚錚たるは言うにおよばないが、注意すべきは後魏(北魏、東魏、西魏)9人に対して北斉は10人、後周(北周)は1人、と隋を除く北朝系では北斉が最多になっている点である(45)。北魏は華北を統一してから東西両魏が滅ぶまでざっと100年以上存続して9人しか挙げられていないにもかかわらず、北斉は北魏の中心部分を占めていたとは言え、文宣帝高洋が即位してから北周に滅ぼされるまでわずか30年足らずであるにもかかわらず、10人も挙げられているのである。また北斉の項目に出てくる画家以外にも、北斉系の画家とみなされる者が何人かいて(46)、その実数はさらにふくれるものとみなされるのである。これらのことは、北朝では北斉において最も絵画制作が盛んであったことを示すものであろう。
さらに人数の問題だけではなく、歴代名画記の記述においても、後魏の9人のうち、実質的に伝が書かれているのは蒋少遊、楊乞徳、王由、祖班の4人だけであとの5人は蒋少遊の伝記の割り注にその名が出てくるだけであり、楊乞徳以下の3人の伝も1行程度の内容でしかない。それに対して北斉では、高尚士、徐徳祖、曹仲璞の3人は1行に伝をまとめられているが、それ以外の高孝珩、簫放、楊子華、田僧亮、劉殺鬼、曹仲達、殷英童の7人は独立した伝を立てられ、殷英童以外は記述も詳細である(47)。こうした体裁だけ見ても、張彦遠にとっては北斉が重要な時代としてかなり意識されていたであろう、ということが推定できるのである。
 実際、こうした北斉の盛んな絵画制作という推定を裏附けるような記事が、北斉書にみえる。巻33の蕭放伝には「(簫)放、性、文詠を好み、頗る丹青を善くす。此れによりて宮中にあっては書史および近世の詩賦を被覧し、画工の屏風等雑物を作るを監して知られ、遂に眷待を被る」(48)とあり、「監画工作屏風等雑物」という役職があったことを暗示する。これはおそらく宮廷内での絵画等の管理、制作をつかさどる仕事であっただろう。また、巻45の文苑伝中に「後主(武成帝の子、高緯)、群小に溺るるといえども、然るに頗る諷詠を好む。幼稚の時、かつて詩賦を読みて人に語りて云わく、終によく此れを作す理ありや、と。長ずるに及び亦た少しく意を留む。初めてよりて屏風を画き、通直郎蘭陵の簫放及び晋陵の王孝式に勅して、古の名賢烈士及び近代の軽艶なる諸詩を録し、以て図画に充てしむ。帝、いよいよこれを重んず」(49)とあって、皇帝の図画愛好の風を伝えている。また先述の歴代名画記楊子華伝には、「世祖(武成帝高湛)これを重んじて、禁中に居らしむ。天下号して書聖となす。詔あるに非ざれば外人のために画くことを得ず」(50)とあって、皇帝の詔勅がな(け?)れば、楊子華は宮中以外の人のために絵をかけなかったことがわかる。また同じく劉殺鬼伝には「楊子華と時を同じくし、世祖、ともにこれを重んず」(51)(と)あり、武成帝が優秀な画家を非常に重んじたことが、以上の記録からわかるのである。
 このように、北斉時代は意外に絵画制作が盛んであったことが、記録の上からも出土品の多さ(52)からも窺えるのであり、その質が非常に高いものであったことは、今回の婁叡墓によって証明されたのである。ではその北斉絵画の具体的な特色は、どんな点にあったのであろうか。ふたたび歴代名画記北斉の条を見ると、特に動物の絵に対して精彩があったとする記述が眼につく。高孝珩の記事では、「(高孝珩)博く多くの才芸に捗り、嘗て庁事の壁上に蒼鷹を画くに、覩る者その真を疑い、鳩雀敢えて近づかず」(53)とあり、高孝珩の蒼鷹の壁画は小鳥も恐れて近寄らなかったことが伝えられている。また劉殺鬼の条では、「(劉殺鬼)闘雀を壁間に画くに、帝(世祖武成帝)、これを見て生けるものとなし、これを払ひてまさに覚る」(54)と記し、武成帝高湛が壁画の雀を追い払おうとするまで本物と思いこんでいた逸話が記されている。楊子華の条に至っては「(楊子華)嘗て馬を壁に画くに、夜ごとに蹄齧長鳴すること、水草を索むるが如きを聴く。龍を素に図するに、巻を舒ぶれば輒ち雲気栄集す」(55)とあって、顧愷之画の伝称のごとくいささか伝説めいているが、画馬のいななきや蹄、歯咬みの音が聞こえたり、龍図に雲気が集まってくるというのは、それだけ絵が真に迫っていたということであろう。
 このような、動物の絵が特に優れていて、しかもそれにまつわる逸話も残っているというような伝は、後魏、後周はもちろん隋にもない。膨大な画家の数を誇る南朝にしても、一部の著名画家を除けば、このような説話めいた記述はあまり例がないと言えるだろう(56)。従って北斉絵画の特徴のひとつには、楊子華を頂点とする優れた動物画があったと言ってよいと思われる。
 ここに、婁叡墓壁画に見る馬の絵の優れた表現が生まれた土壌がある。そして、馬の絵で著名であった楊子華や先述の劉殺鬼は武成帝高湛の重んずるところであり、楊子華については禁中に起居させ、宮廷以外のための制作を制限するほどの待遇であった。一方、武成帝高湛は、婁叡の従兄弟であり、婁叡が平秦王高帰彦の反乱を制圧したり(57)、北周軍を破って周将を捕虜にする功績があった(58)のは、この武成帝の時代であって、単なる君臣以上の関係である婁叡に対して厚く遇するのは自然である。従って、実際に婁叡は卒したのは武成帝の長子である後主高緯が即位した後であったが、婁叡の墳墓壁画制作のために楊子華、あるいはその弟子たちが働いた可能性はかなり高いといえよう(59)。また、このような伝説的な楊子華の画風に連なるものと考えれば、魏晋南北朝という時代を代表する婁叡墓壁画のできばえも納得がゆくのである。
 婁叡墓壁画が、楊子華または楊子華系の画家の手になるということは、先述の鮮卑系(北斉系)の画風は楊子華の様式であると考えることもできる。それでは、南朝系の画家はともかくとして、北魏系、西方系の画風は具体的にはどのような画家が想定されるであろうか。北魏系に関しては、その画風の実情がまだまだはっきりしていないこともあって、具体的な画家名を挙げるのは困難である。西方系に関しては曹仲達が北斉の画家として著名である。彼は「曹国」(サマルカンド地方西北にあったカプータナ国とされる)の出身で、「能く梵像を画く」(60)とあって、西域系の仏教絵画にすぐれていたことがわかる。彼は、歴代名画記の記述だけでは異色の画家のような印象を受けるが、むしろ多彩な北斉画壇の各種の画風を代表するひとり、というふうに考えられる。北斉の墳墓壁画だけでも前章で述べたように様様な画風があり、しかも当時は北斉、北周、南朝の梁と陳、のあいだでかなり交流が盛んであった形跡がある(61)からである。

小結

以上、少ない資料による甚だ不十分な論考ではあるが、婁叡墓壁画の持つ意義、および北斉画壇における位置が、おおよそ検証できたのではないかと思われる。 これまであまりよくわからなかった北斉画壇の状況やその内容、水準が、婁叡墓の出現によってある程度までわかるようになった。その価値は、これまで南朝に比べて低くみなされがちであったが、きたる隋唐絵画におよぼした影響を考えると、南朝絵画に劣らない重要な存在であったことが理解できる。
 この隋唐絵画への影響について多少補足しておくと、南北朝期から隋、初唐にかけての画家の師法関係の問題がある。張彦遠は、歴代名画記の中でこの頃の師法関係を詳細に述べているが、楊子華周辺の師法関係についてはあまり記述がない(62)。従って彼の画風もその起源をたどることはできない。ただ閻立本の言葉として「人を像りてより已来、つぶさにその妙を尽くし、簡易に美を標し、多しとして減ずべからず、少なしとしてますべからざるは、それ唯だ子華のみか」という文が引かれており(63)、閻立本をしてここまで激賞させた楊子華であるから、彼との師法関係は十分想定される。さらに閻立本を評した李嗣真の言葉に、「北朝にては子華、長逝してより、象人の妙、号して中興となす」とあって(64)、楊子華以来の人物画の伝統を閻立本が受け継いだととれる文があり、さらにその可能性を強くする。ともあれ、楊子華画風が何らかの形で初唐画壇に影響をおよぼしたことは、ほぼ間違いないであろう。そのように考えなければ、北魏系や南朝系の切れ長の眼や眉を持つ細面の人物画風が、初唐から盛唐にかけて見られる豊頬、丸鼻の面貌表現に、どのようにして転換していったのか説明がつかないのである。その間に婁叡墓に見られるような顔貌表現を介在させると、様式上の流れが実に明瞭になり、画史の記述とも合致するのである。
 以上のことから、婁叡墓壁画は中国絵画史上において、極めて根深くゆるぎない位置を占めることが理解されるであろう。

  • (1) 歴代名画記巻1叙画之興廃、叙歴代能画人名、巻2師資伝授南北時代等参照。
  • (2) 漢や唐の墳墓壁画は以前からしばしば発見され、日本でも模本の展覧会などで公開され、図録も作られてきた。「中華人民共和国漢唐壁画展」(昭和50年、東京・大阪)、「中華人民共和国西安古代金石拓本と壁画展」(昭和55年、東京・大阪等)、「中国唐墓壁画展」(平成元年、群馬県立歴史博物館)などがそれである。しかし魏晋南北朝時代の墳墓壁画は、この10~20年間に急に多く発見され、報告されるようになってきた。その代表的なものは、次章以下の注を参照されたい。
  • (3) 山西省考古研究所等「太原市北斉婁叡墓発掘簡報」(文物、1983‐10)。
  • (4) 呉作人、宿白等「筆談太原北斉婁叡墓」(同前)。なお、(3)(4)の論文の壁画関係の文章は「國華」1115、1117号に翻訳のうえ掲載されている。
  • (5) 金維諾「曹家様与楊子華風格」、陶正剛「北斉婁叡墓壁画和雕塑」等。
  • (6) 金維諾「北斉絵画遺珍」、史樹青「婁叡墓作者考訂」等。「中国芸術」創刊号(1985年7月、北京)所収。
  • (7) 謝稚柳「北斉婁叡墓壁画与莫高窟隋唐之際画風」(文物、1985‐7)
  • (8) 図録は『中国文物精華』(1990年9月、北京)である。
  • (9) 前注(3)参照。
  • (10) 嘉慶大清一統志、山西太原府。
  • (11) 後述のいくつかの北斉墓の報告、および前注(4)宿白論文参照。
  • (12) 発掘報告では東壁の壁画やその描き起こしはほとんど掲載されず、具体的な図柄は注(6)「中国芸術」掲載の何点かの図版と発掘報告の文章から想像するしかない。
  • (13) このような服装は一般に鮮卑族のものとされている。『中国古代服装参考資料(隋唐五代部分)』(周峯著、1987年、北京)参照。
  • (14) 墓誌銘本文は前注(3)発掘報告を参照されたい。
  • (15) 北斉書巻15、婁昭伝 昭兄子叡、叡字仏仁、父抜、魏南部尚書、叡幼孤、被叔父昭所養、為神武帳内都督、封掖県子、累遷光州刺史、在任貪縦、深為文襄所責、後改封九門県公、斉受禅、得除領軍将軍、別封安定候、叡無他器幹、以外戚貴幸、縦情財色、為瀛州刺史、聚斂無厭、皇建初、封東安王、大寧元年、進位司空、平高帰彦於冀州、還拝司徒、河清三年、濫殺人、為尚書左丞宋仲羨弾奏、経赦乃免、尋為太尉、以軍功進大司馬、武成至河陽、仍遣総偏師赴県瓠、叡在予境留停百余日、専行非法、詔免官、以王還第、尋除大尉、薨、贈大司馬、子子彦、位開府儀同三司    北斉書巻48、外戚伝     婁叡、字仏仁、武明皇后兄子也、父壮、魏南部尚書、叡少好弓馬、有武幹、為高      祖帳内都督、従破尒朱於韓陵、累遷開府儀同、驃騎大将軍、叡無器幹、唯以外戚     貴幸、而縦情財色、為時論所鄙、皇建初、封東安王、高帰彦反於冀州、詔叡住平     之、還、拝司徒公、周兵寇東関、叡率軍赴援、頻戦有功、擒周将楊摽(扌+票+寸) 等、進大司馬、出総偏師、赴県瓠、叡在予境、留停百余日、侵削官私、専行非法、 坐免官、尋授大尉、薨  ひとりの人物について、同じような内容の複数の伝が記載されるというのは、北斉書の成立の複雑な事情を反映しているのかもしれない(中華書局標点本出版説明参照)。婁叡に関するこのような忌憚のない記述も、その意味では信憑性が高いと言ってよいであろう。
  • (16) 婁叡墓以外に、内蒙古自治区の遼代の庫倫1号墓壁画や解放営子墓などの遼墓に見られ、後述の章懐太子李賢墓にも見られる。ただ婁叡墓のような騎馬人物の出行図は、章懐太子墓を除けばあまり例がない。『庫倫遼代壁画墓』(王健群、陳相偉等、1989年、北京)、『遼代壁画選』(項春松、1984年、上海)等参照。
  • (17) 他の北斉墓では、墓道壁画がないか残されていない例が多く、残っているものは儀仗の例が多い。後述の茹茹公主墓、唐代では懿徳太子李重潤墓などである。
  • (18) 続高僧伝巻9、釈僧稠伝 魏孝武永煕元年(532)、既召不出、亦於尚書谷中為立禅室、集徒供養、又北転常山、定州刺史婁叡、彭城王高攸等、請至又黙之大冥山、創開帰戒奉信者殷焉
  • (19) 続高僧伝巻9、釈霊裕伝 後還鄴下、与諸法師連座談説、斉安東王婁叡致敬諸僧、次至裕前、不覚怖而流汗、退問知其異度、即奉為戒師、宝山一寺裕之経始、叡為施主傾撒金貝、其潜徳感人又此類也
  • (20) 安陽県金石録巻2、大方広仏華厳経碑。八瓊室金石補正巻21にも再録さされている。ただし碑石の所在は確認されていない。
  • (21) 隋霊裕法師塔および刻経碑、隋霊裕法師灰身塔および法師行記などが報告されている(常磐大定、関野貞『中国文化史跡 5』1975年、京都)。なお、つい最近、河南省古代建築保護研究所から「宝山霊泉寺」という報告書が出版されたが、内容は未見である。
  • (22) 響堂山の半パルメットを連ねた忍冬唐草文は、南北両響堂山に見られる(32)(33)が、これほどおおぶりの華麗な文様はほかに例をみない。北響堂山の火炎宝珠(31)は摩尼宝珠と言ってよいのかどうかやや問題があるが、婁叡墓と同じ形象のものが、やはり北斉皇室とかかわりの深い小南海石窟等にみられる(『中国美術全集 彫塑編13 鞏県天龍山響堂山安陽石窟彫刻』1989年、北京)。また最近の摩尼宝珠に関する研究(八木春生「中国南北朝時代における摩尼宝珠の表現の諸相」および同再論、佛教藝術、189、203号参照)では、円球形の摩尼宝珠は北斉時代特有のものであるらしい。このような状況から、婁叡墓にみられる形象の忍冬唐草と摩尼宝珠は、北斉時代の皇室を中心に流行した特有の様式と考えられる。
  • (23) 響同山石窟の既存の研究において指摘されていた西方的要素は、単に様式上の問題にとどまらず、図像や思想の上でもインドの原始仏教教典にまでさかのぼる要素を持っていることが、最近の研究によって明らかになってきた(曽布川寛「響同山石窟考」東方学報 京都、第62冊、1990年)。
  • (24) 東西交渉に関連して興味深いのは、ほかに婁叡墓墓室内の雷神(26)がある。敦煌莫高窟の西魏窟である249窟(27)と285窟(28)に雷神の図像がみられるが、249窟の図像のほうが婁叡墓に近いようである。
  • (25) 崔芬墓に関する報告はまだなされていない。『中国美術全集 絵画編12 墓室壁画』(1989年、北京)所収、湯池「漢魏南北朝的墓室壁画」の注73参照。
  • (26) 王克林「北斉厙狄迴洛墓」(考古学報、1979‐3)参照。
  • (27) 磁県文化館「河北磁県東陳村北斉堯峻墓」(文物、1984‐4)参照。
  • (28A)(28B) 済南市博物館「済南市馬家荘北斉墓」(文物、1985‐10)参照。
  • (29) 磁県文化館「河北磁県北斉高潤墓」(文物、1979‐3)参照。
  • (30) 山西省考古研究所等「太原南郊北斉壁画墓」(文物、1990‐12)参照。
  • (31) ほかにも報告がなされていない壁画墓が、いくつか知られている。王伯敏主編『中国美術通史2』(1987年、済南)第4編「魏晋南北朝美術」参照。
  • (32) 甘粛省博物館「嘉峪関魏晋墓室壁画的題材和芸術価値」(文物、1974‐9)、甘粛省博物館「酒泉、嘉峪関晋墓的発掘」(文物、1976‐6)、甘粛省博物館等『嘉峪関壁画墓発掘報告』(1985年、北京)等参照。
  • (33) 雲南省文物工作隊「雲南昭通後海子東晋壁画墓清理簡報」(文物、1963‐12)参照。
  • (34) 甘粛省博物館「酒泉、嘉峪関晋墓的発掘」(文物、1976‐6)、張朋川「酒泉丁家閘古墓壁画芸術」(文物、1976‐6)、甘粛省文物考古研究所『酒泉十六国墓壁画』(1989年、北京)等参照。
  • (35) 磁県文化館「河北磁県東魏茹茹公主墓発掘簡報」(文物、1984‐4)、湯池「東魏茹茹公主墓壁画試探」(文物、1984‐4)等参照。
  • (36) 寧夏回族自治区博物館等「寧夏固原北周李賢夫婦墓発掘簡報」(文物、1985‐11)参照。なお、この李賢墓壁画および後注(37)の史射勿墓、(43)の梁元珍墓の壁画は、1992年に全国回覧の展覧会で公開された(図録は『大黄河オルドス秘宝展』NHKちゅうごくソフトプラン、1992)。
  • (37) 前注(36)図録参照。
  • (38) この壁画断片は、1992年に東京、大阪等で開催された「中国麦積山石窟展」で公開された(図録は『中国麦積山石窟展』日本経済新聞社、1992)。
  • (39) その一例としては、南朝の画像磚から陸探微画風を推定する曽布川論文(曽布川寛「南朝帝陵の石獣と磚画」東方学報 京都、第63冊、1991年)、次に述べる司馬金龍墓漆画が南朝の一般的画風のひとつであることを明らかにした古田論文(古田真一「六朝絵画に関する一考察――司馬金龍墓出土の漆画屏風をめぐって――」美学、168、1992年)などがある。
  • (40) 寧夏固原博物館『固原北魏墓漆棺画』(1988年、銀川)等参照。
  • (41) 和林格爾漢墓壁画についてはすでに多くの論考が発表されているが、代表的なものだけを挙げると、内蒙古文物工作隊等「和林格爾発現一座重要的東漢壁画墓」や金維諾「和林格爾東漢壁画墓年代的探索」を中心とする文物1974年第1期の諸論文、内蒙古博物館『和林格爾漢墓壁画』(1978年、北京)、佐原康夫「漢代の官衙と属吏について」(東方学報 京都、第61冊、1989年)などがある。
  • (42) 前掲(41)佐原論文等参照。
  • (43) 前注(36)図録、および寧夏回族自治区博物館「寧夏塩池唐墓発掘簡報」(文物、1988‐9)参照。
  • (44) 陜西省博物館等「唐章懐太子墓発掘簡報」(文物、1972‐7)、陜西省博物館等『唐李賢墓壁画』(1974年、北京)等参照。
  • (45) 歴代名画記巻1「叙歴代能画人名」全体の合計人数は諸本により異なる。
  • (46) 隋の展子虔は北斉、北周を歴任している(名画記巻8)し、南斉の画家とされる周雲研は曹仲達に師法しており、北斉系の画家とも言える(名画記、後画録)。
  • (47) 歴代名画記巻8、後魏、北斉の条参照。
  • (48) 北斉書巻33、簫放伝 武平中、待詔文林館、放性好文詠、頗善丹青、因此在宮中披覧書史及近世詩賦、監画工作屏風等雑物見知、遂被眷待
  • (49) 北斉書巻45、文苑伝 後主雖溺於群小、然頗好諷詠、幼稚時、曾読詩賦、語人云、終有解作此理不、及長亦少留意、初因画屏風、勅通直郎蘭陵簫放及晋陵王孝式録古名賢烈士及近代軽艶諸詩以充図画、帝弥重之
  • (50) 歴代名画記巻8、北斉 楊子華伝 楊子華[中品上]世祖時、任直閤将軍員外散騎常侍、嘗画馬於壁、夜聴蹄齧長鳴、如索水草、図龍於素、舒巻輒雲気栄集、世祖重之、使居禁中、天下号為画聖、非有詔不得与外人画、時有王子沖善棋通神、号為二絶[見北斉史]、閻立本云、自像人已来、曲尽其妙、簡易標美、多不可減、少不可踰、其唯子華乎、僧悰云、在孫下田上、李云、在上品張下鄭上[斛律金像、北斉貴戚游苑図、宮苑人物屏風、鄴中百戯、獅猛図、並伝於代] ※[ ]内は割り注、以下同じ。
  • (51) 歴代名画記巻8、北斉 劉殺鬼伝 劉殺鬼[下品]、与楊子華同時、世祖倶重之、画闘雀於壁間、帝見之為生、払之方覚、常在禁中、錫賚鉅万、任梁州刺史[見北斉書詞苑伝]
  • (52) 3章で述べたように、北斉時代の墳墓壁画は意外に多く発見されており、その数は今のところ北魏、東西魏よりも多いぐらいである。北周はほとんど報告されていない、前注(25)~(36)等参照。
  • (53) 歴代名画記巻8、北斉 高孝珩伝 世祖第二子、封広寧郡王、尚書令、大司徒、司州牧、博渉多才芸、嘗於庁事壁上画蒼鷹、都者疑其真、鳩雀不敢近、又画朝士図、当時絶妙、為周師所虜、授開府、封県候(この箇所は通行本と異なり、太平広記巻211及び北斉書本伝による)、孝珩亦善音律、周武宴斉君臣、自弾琵琶、命孝珩吹笛[見北斉書]
  • (54) 前注(51)劉殺鬼伝
  • (55) 前注(50)楊子華伝
  • (56) 歴代名画記巻5~8全般参照。
  • (57) 北斉書巻7、武成帝河清元年7月
  • (58) 同右、河清3年11月
  • (59) 楊子華の作品として北斉の顕臣斛律金の像が伝わっていたこと(前注(50)割り注参照)も、婁叡のために楊子華が画くことの蓋然性を高める傍証となろう。
  • (60) 歴代名画記巻8、北斉 曹仲達伝 曹仲達、本曹国人也、北斉最称工、能画梵像、官至朝散大夫…
  • (61) たとえば歴代名画記巻8、北斉簫放伝に「簫放、字希逸、梁武帝猶子也、為本朝著作郎、入斉、待詔詞林館…」とあり、南朝梁の武帝の甥である簫放が北斉につかえたことがわかる。その他、高孝珩や展子虔についてもなんらかの形で他朝との行き来がある。
  • (62) 歴代名画記巻2、叙師資伝授南北時代 ただ「二閻師於鄭(法士)、張(僧繇)、楊、展(子虔))」とある文で、「楊」を楊子華とすれば後述のような記述と合致する。現在中国では楊子華と解釈している(前注(5)金維諾論文等)ようであるが、日本では楊契丹と解釈するのが一般的である。長廣敏雄訳注『歴代名画記1』(昭和52年、東京)、岡田・谷口訳「歴代名画記」(『文学芸術論集』所収、1974年、東京)等参照。この「叙師資伝授南北時代」の師法関係については、これまであまり整理されたことはなく、楊子華の師法も含めて今後の課題としたい。
  • (63) 前注(50)楊子華伝
  • (64) 歴代名画記巻9、閻立本伝

(補記)婁叡墓壁画が楊子華画風と深くかかわっていることが判明すると、見過ごすことの出来ない作品がある。ボストン美術館所蔵の「北斉校書図」(65)がそれで、北斉の文宣帝高洋が天保7年(556)、樊遜をはじめとする12人の学者に命じて皇太子に供する群書を校定せしめ、五経諸史の遺闕なきことを得た故事(北斉書巻45、文苑、樊遜伝)を描く。金維諾氏は、この作品を宋代の模本であり楊子華の画風を伝えるものとして、婁叡墓壁画と比較検証されているが(前注(5)参照)、「北斉校書図」は、この作品に附された笵成大の跋文(孔凡礼『笵成大佚著輯存』(1983年、北京)参照)により閻立本の伝称を持っている(K. Tomita, 'Scholars of the Northern Ch'i Dynasty Collating the Classics', Bulletin of the Museum of Fine Arts, Boston, XXIX, no. 174 (August 1931), 58-63. L. Sickman, A. Soper, The Pelican History of Art, The Art and Architecture of China (Kingsport, 1956), 226-7. およびジャン・フォンテーン『ボストン美術館 東洋』(1968年、東京)解説参照)。既に述べたように、閻立本が楊子華の画風を受け継いでいる可能性が大きい上に、この作品が北斉作品の閻立本模本か、閻立本オリジナルか笵成大の言葉だけでは不明であり、その宋模本となればさらに事情は複雑になる。また台北故宮博物院には、同じ図柄を使用した五代丘文播「文会図」と伝えられる作品があり(『故宮名画三百種』1959年、台中)、いくつかの別本が存在していたようでもある(庚子銷夏記巻8、北斉勘書図黄伯思等跋文参照)。よって、ボストン本「北斉校書図」一点から楊子華画風を抽出するのはやや無理があるのではないかと思われ、本文では扱わなかった。この作品の持つ問題も待考としたい。

図版出所目録

  • (1) 山西省考古研究所等「太原市北斉婁叡墓発掘簡報」(文物、1983‐10)
  • (2) 同右
  • (3) 同右
  • (4) 同右
  • (5) 同右
  • (6) 同右
  • (7) 「中国芸術」創刊号(1985年、北京)
  • (8) 同右
  • (9) 同右
  • (10) 同右
  • (11) 同右
  • (12) 『中国文物精華』(1990年、北京)
  • (13) 「中国芸術」創刊号
  • (14) 同右
  • (15) 同右
  • (16) 同右
  • (17) 同右
  • (18) 同右
  • (19) 『中国美術全集 絵画編12 墓室壁画』(1989年、北京)
  • (20) 「中国芸術」創刊号
  • (21) 『中国美術全集 絵画編12 墓室壁画』
  • (22) 「太原市北斉婁叡墓発掘簡報」
  • (23) 「中国芸術」創刊号
  • (24) 同右
  • (25) 『中国美術全集 絵画編12 墓室壁画』
  • (26) 「太原市北斉婁叡墓発掘簡報」
  • (27) 『中国石窟 敦煌莫高窟 1』(1980年、東京)
  • (28) 同右
  • (29) 「中国芸術」創刊号
  • (30) 『中国美術全集 絵画編12 墓室壁画』
  • (31) 常磐大定・関野貞『中国文化史跡 5』(1975年、京都)
  • (32) 同右
  • (33) 同右
  • (34) 同右
  • (35) 『中国美術全集 絵画編12 墓室壁画』
  • (36) 同右
  • (37) 同右
  • (38) NHKちゅうごくソフトプラン『大黄河・オルドス秘宝展』(1992年)
  • (39) 同右
  • (40) 同右
  • (41) 『中国美術全集 絵画編1 原始社会至南北朝絵画』(1986年、北京)
  • (42) 『大黄河・オルドス秘宝展』
  • (43) 同右
  • (44) 『中国石窟 炳霊寺石窟』(1986年、東京)
  • (45) 同右
  • (46) 『中国石窟 麦積山石窟』(1987年、東京)
  • (47) 同右
  • (48) 『中国石窟 敦煌莫高窟 1』
  • (49) 同右
  • (50) 『中国美術全集 絵画編1 原始社会至南北朝絵画』
  • (51) 同右
  • (52) 同右
  • (53) 同右
  • (54) 同右
  • (55) 吉川逸治『大英博物館Ⅰ』(1966年、東京)
  • (56) 『中国美術全集 絵画編1 原始社会至南北朝絵画』
  • (57) 同右
  • (58) 内蒙古博物館『和林格爾漢墓壁画』(1978年、北京)
  • (59) 『中国石窟 敦煌莫高窟 1』
  • (60) 『大黄河・オルドス秘宝展』
  • (61) 陜西省博物館等『唐李賢墓壁画』(1974年、北京)
  • (62) 同右
  • (63) 国立故宮博物院『歴代画馬特展』(民国67年、台北)
  • (64) 同右
  • (65) ジャン・フォンテーン『ボストン美術館 東洋』(1968年、東京)

初出:礪波護編『中国中世の文物』京都大学人文科学研究所 1993年